宇宙遊泳

スホさんとEXOについての独り言

スホさんというアミニズム

 なんの取得もない私だが、一つだけ、自信を持って自慢できる特技がある。
 すべてにスホさんを感じることができる、ということだ。

 例えば、私の目から見ると、空気、空、海、風、雲、川、森林…思いつく限りの美しい自然すべてにスホさんが宿っている。雨や雪、霧、台風、霜、虹などの自然現象や、星、惑星、月、太陽、などの宇宙に関するものは(スホさんはもともと宇宙人だし)もちろんのこと、花、草、木などの植物、動物といった生命にまで、スホさんを感じることができる。無機物も然り、鉱物の結晶など、それはもうスホさんである。人工物も同様に、一枚の紙を見ても、そこにスホさんを感じる。
 私が美しい、きれいだと感じるもの───ただ単に、ぱっと見の「美しい」ではなく、時には暗さ、重さなどの面を孕んだ「美しい」である───は、たいていスホさんに置き換えられて、その先にある比喩的な幻想の世界へと連れていってくれる。

 これは一種のアミニズムであると私は自己分析している。この能力があってなんの役に立つのか、という疑問があるなら、ただ一つ言いたい。
 スホさんというアミニズムは、私を癒し、元気づけ、再び立ち上がる力を与えてくれるのだ。
 日常にスホさんを感じることによって、私は日常を抜け出し、透明なスホさんの空気に浸ることができる。それによって、色々な些細な悩みを忘れることができ、少しだけ楽になれる。

 例えば、自分のことを認められないとき、自己嫌悪に陥って抜け出せなくなるとき、そんな現実から目を背けて、逃げ出したいとき。
 スホさんを心に思い描けば、私は穏やかになれる。
 ほかの誰でもなく、スホさんというこんなにすばらしい人を、自分は見つめて、応援しているのだ。ということを思い出して、そんな自分に少し誇りを持てるからかもしれない。
 そして、気分が落ち着いた後は、スホさんの生き方というものをすぐに思い出す。そして、ああ、こんな小さなことで、へこたれてはいけない。負けてはいけない。立ち上がらなくてはいけない。そう思える。
 スホさんが、度重なる不幸にも屈しず、どれだけのものを背負って、ここまで歩いてきたか。
 そんな人が言った言葉は、なんであったか。
 それを思い出したら、自分の弱さに負け続けてなんかいられないと心底思う。
 だから、少しでも早く進まなければ、と、勇気が湧いてくるのだ。 

 スホさんはこんなにも、私を進むべき方向へと導いてくれる。
 だからこそ、スホさんという神様は、精神衛生上、私にとって不可欠なのである。
 前にもこのブログで述べたが、スホさんはやはり、私の導きの星と言って間違いない。
 暗闇でしか見えない光となって、優しく照らしてくれる。
 ありがとうございます。あなたは私の一番大切な、心の星なのです。


 そして、アミニズムの話に関連して、あることを思い出したので綴ってみることにする。

 Curtainがリリースされたあの日のことだ。その日、私は特別な用事があって、夜明け前に家を出た。
 その日の空が、本当に綺麗だったのだ。まだ三日月が西の空に輝き、星が瞬いていた。去年のスホさんの誕生日にも、空が綺麗に晴れていたことを思い出した。その時にも感じたが、やはり、この宇宙もスホさんを祝福しているのだと、改めて思った。
 目的地に到着するまでの間、私は車の中で、ずっとCurtainをリピートしながら空を見ていた。遠出だったので、長いこと見上げていられた。
 この歌を聴きながら、夜明けを迎えた。
 藍色だった空が水色に近づき、山際だけだった朝焼けのオレンジ色が、だんだんと広がっていく。全体が明るくなって、空の西側まで、ほんのりと薄紫やピンク色に染まる。
 徐々に白んでいく空を眺めながら、私はただこの歌に、スホさんのどこまでも透き通った声に聴き入って、本当に色々なことを思った。自分はこれからどうしていくべきなのか。どうすればもっと、なりたい自分、あるべき自分に近づけるのか。そんなことも考えた。
 そして、そんなときに光となってくれるのがスホさんであることのありがたさに感謝した。
 きれいな歌ときれいな空ときれいな感情に包まれた、贅沢な時間だった。
 あの時間は、きっとこれからも忘れないだろうと思う。最近で、一番美しい時間だった。

 夜、用事が済み、駅の近くのバス停に降りて、駅まで歩いた。その夜も、三日月だった。朝より少し膨らんでいた。月の近くには金星が本当に大きく輝いていた。震えるほど寒かった。でも、縮こまらずに、冷たい空気をぜんぶ身に受けて、この曲を聴きながら歩いた。
 月の周りに出来る虹は、月虹(げっこう)と言うらしい。その日の月は三日月だったのに、月虹が周りを囲んでいて綺麗だった。そして、その月の淡くつややかなレモン色の光に、ゴッホにとっての「黄色」の意味と同じようなものを感じたのと同時に、私はスホさんを思った。スホさんは私の黄色だと思った。例えるならば、こういう月虹を放って輝く、澄んだ黄色。
 家につく頃には月は西に傾き、オリオン座が南の空にあった。その日は、おおいぬ座も、北斗七星も、カシオペア座も見えた。私の実家の裏は山なので、北の星座がよく見えるのは珍しいが、その日、その時間は、角度が完璧だったのだろう。どちらもギリギリ見える範囲にあった。
 やはり、天からも祝福されている、この日は絶対に特別な日だ、と、心から思った。
 星空を見上げても、やはりスホさんを感じる。いつだったか、カイくんが言っていたきれいな言葉を思い出す。スーパームーンの日のお手紙だったかな。「僕達、同じ月を見てるんだね」というようなことを、カイくんは言った。
 私もそんな気持ちになることがある。この綺麗な星空を、星が無理ならこの綺麗な月を、彼もまた見上げているかもしれない。彼らもまたひとりの人間で、こんな世界の隅っこで生きているちっぽけな自分なんかと、同じ空を見上げる同じ世界に生きているのだと思うと不思議でならない。
 でもスホさんはやはり、私にとっては、ただの同じ人間ではない。私は別の角度からもスホさんを感じる。星そのものをスホさんとするアナロジーが、無意識に私の思考に組み込まれている。
 私にとってのスホさんという存在を思えば、スホさんは、満天の星空にとりわけ明るく輝くシリウスのようである。薄く雲のかかった少し暗い夜でも、シリウスはすぐに見つけることができる。青く白く、煌々と輝いて、自分はいままでもこれからもそこにいるのだと言うように、私を安心させ、強い信頼を置かせてくれる。シリウスの輝きは、絶対的な信頼が置けて、導きの存在となってくれるという意味で、スホさんと似ている。
 また、スホさんそれ自体という客観的な存在を思えば、スホさんは、今となってはその存在すら危ういベテルギウスのようでもある。何よりも、スホさんの生き方に、ベテルギウスらしいものを感じる。彼は、永遠でないことを、その心で誰よりもきちんと理解していながら、それでも永遠という命題を信じているのだ。
 ベテルギウスがもうなかったとする。しかしそれはあたかもまだその身体を燃やして赤く輝いているかのように、なくなるなんて信じられないような光を、未だ私たちに届けている。
 永遠のように思える輝きも、いつかは失わるのだと、スホさん、そしてEXOはしっかりと認識しているのだなと、彼らの言葉を聞いていて私は思う。
 しかし同時に、スホさんは、誰よりも強く、EXOの永遠を信じている。
 スホさんが諸行無常をひとつの理念とする仏教の信徒であるというだけでなく、彼の実際の言葉からも、スホさんは、永遠がないことを細胞からいちばん認識しているはずだとわかる。それなのに、スホさんは、永遠を信じている。これは確かに矛盾している。スホさんは本当に、そういう部分が多い。美しきアンビバレンスでできている人だ。
 スホさんは、ベテルギウスのようでありたいなどと、思ったことはないだろうか。そう考えてしまうくらいには、このスホさんのアンビバレンスは、ベテルギウスにおけるそれと、どこか似ている。
 その日の空は、そんな風に、前から積み重なってきた考えが、いっぺんに思い出された、密度の濃くてすきとおった夜空だった。
 

 この日のことを思い出して、改めて考えてみたが、スホさんのあの歌がこの世に解き放たれた記念すべき日に、あんなにきれいな空ときれいな時間を過ごしたことは、やはり偶然だとは思えないのだ。
 こんなことがあったので、私はそれ以前よりも、スホさんに宇宙の息が呼応することを意識するようになったのかもしれない、と思い至った。

 改めてここに書いたこと全体を俯瞰してみると、スホさんとはやはり宗教そのものである。でもそれは決して悪い意味のものではなく、ただ尊いものとして、我々が潜在的に、当然に宇宙に対して抱く敬意と同じ類の、宗教なのではないかと思う。
 スホさんの存在そのもの、そしてスホさんという神を宿したこの世の万物に、私は救われる。
 そのありがたさを考えてみたら、思わずにはいられないのだ。色褪せぬように、汚れてしまわぬように、当たり前になってしまわないように、心の奥底の宝箱に、この感情と観念を、大切に大切にしまっておきたい、と。
 スホさんは、そんな神様だ。